工藤 正俊さん(企業局長)
2020年05月01日
まず(就任にあたって)、抱負のような大それたものはないと謙虚に前置きし、「工業用水と発電事業は歴史が有るので、改めて現場を見ると、ハード、ソフト両面に渡って先輩方の積み上げてきた財産の蓄積を感じている。その財産を引き継ぐにあたり、機能を十分に発揮し、お客さまに迷惑をかけない安定した運用の役目を果たさなければならない」と責任感を表した。
さらに「例えば工業用水で言えば、45社のユーザー企業だけでなく、大分市の約3割の世帯の上水、また別府発電所の水は、市内の約7割の世帯の上水の水源にもなっており、ライフラインを担う責任感にも身が引き締まる」と重責をかみしめる。
「大野川、大分川をはじめとする大分の豊かな水を生かして地域に貢献するという経営理念が企業局職員の仕事のバックボーンになっている。常にそのことを意識して仕事をしてもらいたい」と職員の意識の高揚に期待を込めた。
(前任の)東京から見た大分については「温泉、自然、食材の豊かさにもっと自信を持って良いと思うし、ラグビーW杯日本大会の大成功の象徴は大分大会であり、大分県人のホスピタリティーのたまもの。おもてなしの県民性を堂々と誇って良いのではと思っている」と、県民のポテンシャルの高さを確信する。
加えて「大分県人は、歴史的にも東京で各方面の重要なポストに就き活躍している人も多い。在京大分県人会では、大分県のことを考えてくれている熱い方々に接して感動した。特に県民の会合で『ふるさと』を合唱した時は本当に心に染みた」と、エピソードを交えて話した。
建設業界に対しては「大小含めて年間200件弱の発注件数があるが、ほとんど地場の企業にお願いしており、非常にお世話になっている。今も、大野川発電所のリニューアルをお願いしている。企業局は、普通の土木、建築だけでなく設備産業というか特殊な分野が多いので、あまり経験のない工種については、お互いに協力しながらレベルアップを図っている」と協力体制の深さを語った。
また「東京事務所ではUターンする人たちに建設業界で働きませんかとPR活動をしていたこともあり、建設業界には引き続き人材確保に頑張っていただきたいし、当方でも学生や若い人たちに業界の魅力を伝えるなど、人材確保に対して何かお手伝いできたら」と、エールを送る。
趣味は特に無いと言うが「東京では、落語や時代小説に親しんだ。それは、東京には舞台となる実際の場所が多く、時代背景の想像が膨らみ、身近に感じたからだ」と振り返る。
また、小学校から大学までサッカー部でボールを追いかけ、高校時代にはインターハイにも出場している。
サッカーの仲間とは今でも絆が深いという。県庁に入庁してからもサッカー部に在籍しており、東京赴任前まではOBチームで汗を流していた。
1983年に県職員に、産業科学技術センター参事、情報政策課長、
工業振興課長、大分県東京事務所長などを経て、今年4月、現職。大分市出身。59歳。
さらに「例えば工業用水で言えば、45社のユーザー企業だけでなく、大分市の約3割の世帯の上水、また別府発電所の水は、市内の約7割の世帯の上水の水源にもなっており、ライフラインを担う責任感にも身が引き締まる」と重責をかみしめる。
「大野川、大分川をはじめとする大分の豊かな水を生かして地域に貢献するという経営理念が企業局職員の仕事のバックボーンになっている。常にそのことを意識して仕事をしてもらいたい」と職員の意識の高揚に期待を込めた。
(前任の)東京から見た大分については「温泉、自然、食材の豊かさにもっと自信を持って良いと思うし、ラグビーW杯日本大会の大成功の象徴は大分大会であり、大分県人のホスピタリティーのたまもの。おもてなしの県民性を堂々と誇って良いのではと思っている」と、県民のポテンシャルの高さを確信する。
加えて「大分県人は、歴史的にも東京で各方面の重要なポストに就き活躍している人も多い。在京大分県人会では、大分県のことを考えてくれている熱い方々に接して感動した。特に県民の会合で『ふるさと』を合唱した時は本当に心に染みた」と、エピソードを交えて話した。
建設業界に対しては「大小含めて年間200件弱の発注件数があるが、ほとんど地場の企業にお願いしており、非常にお世話になっている。今も、大野川発電所のリニューアルをお願いしている。企業局は、普通の土木、建築だけでなく設備産業というか特殊な分野が多いので、あまり経験のない工種については、お互いに協力しながらレベルアップを図っている」と協力体制の深さを語った。
また「東京事務所ではUターンする人たちに建設業界で働きませんかとPR活動をしていたこともあり、建設業界には引き続き人材確保に頑張っていただきたいし、当方でも学生や若い人たちに業界の魅力を伝えるなど、人材確保に対して何かお手伝いできたら」と、エールを送る。
趣味は特に無いと言うが「東京では、落語や時代小説に親しんだ。それは、東京には舞台となる実際の場所が多く、時代背景の想像が膨らみ、身近に感じたからだ」と振り返る。
また、小学校から大学までサッカー部でボールを追いかけ、高校時代にはインターハイにも出場している。
サッカーの仲間とは今でも絆が深いという。県庁に入庁してからもサッカー部に在籍しており、東京赴任前まではOBチームで汗を流していた。
1983年に県職員に、産業科学技術センター参事、情報政策課長、
工業振興課長、大分県東京事務所長などを経て、今年4月、現職。大分市出身。59歳。